【Jack the Ripper】 written by 光路郎


 奇妙な事件であった。
 被害者に共通点はない。女、男、若者、老人。職業も、服装も、ありとあらゆる点において。
 唯一、午前二時頃に外を出歩いていた、ということを除いては。
 最初と次の被害者は、女性であった。彼女らは全身を切り刻まれ、第一発見者は道端に落ちていた足首を見つけ、卒倒しそうになりながらも警察に通報した。発見された胴体にもまた、鋭利な刃物による傷でいっそ芸術的とも言える模様がついていた。
 最初の女性の職業が娼婦であったこと、そして凶器が――特定はされていないが――鋭利な刃物であることから、マスコミは挙って「現代の切り裂きジャック」と書きたてた。
 三人目は、老人であった。田舎から、その街に住む息子夫婦を訪ねてきたらしい。運転してきた車が途中でエンストを起こし、おかげで到着が夜中になった。そして、被害に遭った。
 四人目は四十半ばの男性であった。彼は前の日、男手一つで育ててきた娘の結婚式に参加し、酒をしこたま飲んだ。一人で家に帰ろうとし、道端で眠りこけたらしい。翌朝、彼は首と胴体が離れて発見された。
 五人目は十九歳の若者であった。彼は遊ぶ金欲しさから商店に押し入ろうとし、犯人と遭遇したらしい。
 かくてその街は、“ジャック・ザ・リッパー”の影に怯え、恐怖のどん底に突き落とされた。


「妙な事件だな」
 ソファの上で胡坐をかき、新聞を読み広げていた五右ヱ門が顎を掻きながら言った。
「何がだ?」
 次元がフライパンで豆を炒りながら問い返す。
「これだ……切り裂きジャックとかいう輩のことだ」
「ツイてねェよな。よりによって、俺たちが滞在している間にンな事件が起きることもねェのによ」
 この街に住む富豪が所有していたある壺をルパンたちが盗んだのは、二週間前のことだ。その直後から事件は立て続けに起き、おかげで今、街中を警察官が駆けずり回っている。いずれこの部屋も知れ、捕まるのは必定だ。早く出たほうがいいという次元の忠告を、しかしルパンはどこか上の空で聞いていた。今も何か調べ物があるとかで、外出している。
「何のために被害者を切断するのかが分からん」
「そりゃお前、頭のどうかしている奴のやるこった。理由なんざ、ねェだろうよ」
 五右ヱ門は片眉を上げ、新聞を畳んだ。
「いや、この下手人は頭のどうかした奴どころか、相当キレる者と見た」
「そうかァ?」
 次元は豆を皿に移し、フォークで一粒刺して口の中に放り込む。
「考えてもみろ。人体を切断するというのは、存外手間がかかるものだ。それがどうだ。最初の仕事から、正確に、それも手早くやってのけている。相当手馴れた者の仕業だ。……時に、人体をバラバラにすることによって、何の得があると思う?」
「そうだな。普通は身元を分からなくするため、後は持ち運びやすくするためだろうな」
 元が殺し屋なだけに、次元もその辺は詳しい。
 五右ヱ門は頷き、
「だが今度の事件はどちらにも当てはまらん。ただの快楽殺人なら、逆に被害者に何らかの共通点があってもよさそうなものだ。だが、それもない。……つまり、何者かが何らかの理由があって、この事件を起こしていると見るべきだろう」
「誰が、何の理由でやってるって言うんだ?」
「それが分かれば、苦労はせん」
 次元は苦笑した。
「怖いねェ。こんな街とはとっととオサラバしたいもんだがな」
「ルパンは何をしているのだ?」
 さてね、と肩を竦める。「どうもあいつは時々、俺たちに理解できないことをしやがる。IQ300ってのは、ややこしくていけねェや」


 ルパンが戻ってきたのは、夜も更けてからだった。
 開口一番、
「この街を出ろ」
「……帰ってくるなり何だ、いきなり」
 ソファに寝転がっていた次元は、顔に乗せてあった雑誌を退けて顔をしかめた。
「警官がうようよしてるが、お前らなら問題ねえだろう」
「――ちょっと待て。その言い方だと、お前は残るように聞こえるんだがな?」
 ああ、とルパンは頷いた。
「俺は残る」
「何かやり残したことがあるのか? それだったら――」
「お前たちは街を出ろ」
 次元がムッとしたのを知ってか知らずか、ルパンは続けた。「命令だ」
「フザケろよ? わけも言わずに、ただ命令だ? 聞けるわけねェだろうが!」
 じろり、とルパンは睨めつけた。次元は息を飲んだ。
 一切を拒絶する目だった。何も訊くな、と漆黒の瞳が語っている。
「……分かった」
 嘆息し、次元は答えた。こういうときのルパンは、とにかく頑固だ。次元の言葉に、耳を貸しもしない。
「だが、くれぐれも無茶はするなよ」
 つい、とルパンは視線を逸らし、ああ、とだけ短く答えた。


 一連の事件のため、街では夜間外出禁止令が出ていた。とはいえそのものに拘束力はなく、ふらふらと出歩く馬鹿者もいるわけで、獲物を求めた殺人鬼の出現を危ぶんで警察はパトロールをより厳重に行っていた。
 が、いかんせん警察官の人数には限りがあるので、二人一組という原則を無視することもある。それに、警官に手出しはしないだろうという、全く根拠のない自信も、彼らにはあった。しかしそれがどれだけ役に立たないかは、たとえばICPOの銭形警部を見ていればしばしば分かることである。
 その夜、警察官になって四年目のクローク巡査は、相棒のドリー巡査が風邪でダウンしたため、たった一人でその地区のパトロールを行っていた。連日連夜の勤務が響いたのだろう。いつまで続くのだろうか、と独りごちた。
 そして――彼は出遭ってしまった。
 身体の小さな、骨と皮だけのような老人だった。どこかで見た気がする、と思い、声をかけた。
 危険だから家に帰るように――そう、注意するつもりだったのだ。
 ところが、ヒュン! と風を切るような音がしたかと思うと、胸元の無線機が突然音を立てて弾けた。
「え――?」
 何が起きたか分からずに、彼は壊れた無線機と老人とを見比べた。
 街灯に、老人の顔が青白く浮かび上がった。
 ゾッとした。
 まるで生気というものを感じさせない、髑髏のような顔だった。
 その髑髏が、ニッと嘲った。
「つまらん仕事を選んだもんだね――」
 地獄の底から這い上がってくるような、不気味な掠れた声だ。人間が発する音とは思えなかった。
「警官でなければ、まだ長生きも出来たものを……」
 老人がゆっくり腕を上げた。

 ――ヤバイ。

 クロークは危機感を覚えた。咄嗟に腰の銃に手をやる。発砲してもいいだろうか、この老人を射殺したとして、その正当性がどれだけ認められるだろうか、とちらり考えた。何しろ相手は年寄りだ。彼の感じた恐怖など、相手が死ねば証明しようがない。
 それが命取りだった――そのはずだった。
 彼の頬を何かが掠った。咄嗟に身体を捩り、手を顔に持っていった。
 後方で、何かが跳ね返ったようだった。
 そして、――彼がつい今までいた場所の空気が、裂けた。
「な、な……?」
 指はべっとりと血に染まっていた。撃たれたのだ、と判断するまでに然程時間はかからなかった。
 この老人ではない。別の何者かの手によって。
「行きな」
 声がした。商店の玄関前の階段に、男が座っていた。その手に銃が握られてい、硝煙が立ち昇っている。
「警官が六人目の犠牲者じゃ、洒落になんねえだろう」
「だ、誰だ!?」
「天の助け」
「――は?」
「お前さんにとっちゃな。早く行きな、切り裂きジャックの餌食になりたかねえだろう?」
 クロークは迷った。警官としては、ここで立ち去るわけにはいかない。だが、どう考えてもここに留まることのメリットはない。
「キ、キミはどうするんだ?」
 それでも一応念のため、尋ねる。後で問題になったら困る。
「お構いなく」
「そういうわけには――」
 躊躇うクロークに彼は続ける。
「行かなきゃ、今度は心臓を撃ち抜くぜ」
 クロークはぎょっとした。強ち冗談とも思えぬ口調と表情だったので、逡巡した後、無言でその場を駆け出した。命あっての物種である。
「――追わなくていいのか?」
 クロークの姿が見えなくなると、ルパンは老人に向かって問いかけた。
 ニタリ、と老人は白い歯を見せて嘲った。
「所詮は、餌ですからな。待ちかねた獲物が引っかかれば、用はありませぬよ。それに無線機は壊しました。応援が駆けつけるまでに、まだ間はありましょう」
 はあん、とルパンも酷薄な笑みを浮かべた。
「やっぱり、俺が目当てか。それにしちゃ、随分殺したもんだな」
 老人は干からびたように細い指を、くねくねと動かした。
「リハビリですよ。もう、長いこと使っておりませぬでな。三人目辺りからは、大分勘も取り戻せました」
 ルパンは目を細め、ワルサーをホルスターにしまうと、懐から煙草を取り出して銜えた。
 立ち昇った紫煙に、老人が顔をしかめる。
「……煙草は臭いがつきます。吸わぬよう、ご忠告申し上げたはずですが?」
 ふう、とうまそうに煙を吐く。
「俺あ、殺し屋じゃねーかんな。女にモテねえってんなら禁煙もすっけどな」
 しかしまあ、と嘆息する。
「お前さんがこの街にいようとはね。とゆーより、まーさかまだ生きてるとはね」
「そう簡単には、死にませぬよ」
「無駄だとは思うが念のためだ。――回れ右して帰れ。今度のことは俺も忘れてやる。余生をのんびり平和に過ごすんだな」
 クククッ、と老人は嘲った。
「無論、私とてそのつもりでしたよ。ですが、貴方様がこの街に現れたのを知り、これぞ天命だと思いましてな」
「俺と遣り合うのがか?」
 老人は目を細めた。どこか遠くを見つめるような表情だった。
「貴方様は優秀な生徒でございました。教えたこと全て、湯水の如く吸収してしまう。――断言致しましょう。貴方様は生まれついての犯罪者です。泥棒だけでなく、殺し屋としてもね」
 ルパンは煙草を落とし、爪先で潰した。
「なーんかこう、当たり前のこと言われても嬉しかねーな」
「……それ故に、貴方様と勝負がしてみたいのですよ。御曹司」
 ルパンはがりがりと頭を掻いた。
「カイエル・ノウス」
 呼ばれて、老人は益々目を細めた。
「俺はな、五右ヱ門と違って強い奴と戦うことでワクワクしたりしねーんだわ。何でかっつーとだ、どんな相手であれ、俺が勝つのは当ったり前のことだからな。当たり前のことでワクワクはしないだろ? それに次元みたいに親切でもないから、挑んできた奴にわざわざ応えてやるようなこともねえ」
 だが、それでも。
 自分のために無関係な人間が次々に殺されたとしたら。
 そして、ここで応えねば更に犠牲者が出るというなら。
 小さく嘆息し、ルパンは言った。
「――来いよ。相手になってやらあ」
 老人――カイエル・ノウスが大きく目を見開いた。瞬間、何かがルパンへ向かって伸びてきた。
 ルパンはそれを、上体反らしで避ける。同時に地面を蹴った。
 鼻先をそれが掠めていく。通り過ぎ、戻る。
 ひゅん! と音がして、それがノウスの手元に収まった。
 ルパンがくるんと一回転し、地面に這うように着地した。姿勢を低く取る。
「……嫌な目だ」
 吐き出すように、ルパンが言った。
 ニタリとカイエルが笑みを浮かべる。その瞳には、白目の部分がほとんどなかった。
 人は、快感を覚えると黒目が大きくなるという。カイエル・ノウスは今、ルパン三世を殺せるという悦びに打ち震えていた。
「貴方様はこの悦びを知らぬのでしたな。あれだけ、多くの者を手にかけて」
 人を殺して、楽しいと思ったことなどない。
 逆に、辛いとか悲しいとか、負の感情さえも持ち得なかった。
 少なくとも、帝国にいた頃は。
 とん、とルパンは額を指差した。
「お前が教えてくれたんだったな、カイエル。人をいかにうまく殺すか。お前のノウス家は、暗殺のプロ集団だったからな」


 ――かつて。
 ルパン帝国には、ありとあらゆる道のプロフェッショナルが集まっていた。金庫破り、体術、銃の取り扱い、化学、コンピューターの取り扱いetc。
 その中の何人かは能力の高さ故に幹部の地位を得、一大勢力を誇る者たちも出てきた。ルパン二世を殺害したキングもその一人であったが、それとは別に四天王と呼ばれる一族があった。帝国は、事実上彼らの手によって動かされていた。
 そのうちの一家、ノウス家は卓越した暗殺術を誇っていた。銃だけではない。毒物や刃物、或いはその辺に落ちている小石ですら、彼らの手にかかれば殺人の道具となりえた。そしてルパンは、当時の当主であったカイエルに、人を殺す術を叩き込まれたのだった。――もう、二十年も前の話だ。
 ルパンには、才能があった。
 カイエルは、初めてルパンがその才能を垣間見せたときのことを鮮烈に覚えている。彼の子飼いの殺し屋たちが、――たとえそれが訓練であり、油断があったとしても――見事に全員、再起不能なまでに叩きのめされたのだ。それも、たった十三歳の少年に!
 衝撃と同時に、感動を覚えた。この少年に自分の何もかもを教え込みたい、と思った。自分の技が誰よりも優れていると証明したいのは、腕に覚えある者なら当たり前の感覚だ。それがたとえ、表に出すことの出来ない――いや、だからこそ、そうという証を立てたかった。
 ルパンは実に教え甲斐のある生徒だった、――とは彼に何かを教えたことのある人間なら、必ず抱く感想だ。一度教えたことは、決して忘れない。カイエルが編み出した暗殺術を、一つ一つきっちりと自分のものにしていった。
 同時に、得てして師弟関係にありがちなことではあったが、ひょっとして自分を凌ぐのではないか――、そんな危機感を彼は覚えた。その矢先の、帝国の崩壊だった。同じ四天王の一つ、ウエスト家の女主人はそのときに死んだ。おそらくルパンが殺したのだろうと、カイエルは確信している。彼が教えた、その技で。
 カイエルは姿を晦ませた。ルパンに居場所が知られれば、必ず殺される。少なくとも、その覚悟で遣り合わねばならない。彼はまだ死にたくなかった。その時既に六十近かったが、人生に執着があった。
 だが、十年以上の月日が流れた今、老人の胸に宿るのはかつてその手で断ち切った命の重さ、――いや、快感であった。肉に食い込み、ぷつりという音と共に千切れ、血が吹き出す。命を摘み取る、神のそれにも等しい悦び。思い出すたび全身を駆け巡る衝動に堪え切れなくなった頃、ルパンが現れた。かつての教え子が、そこにかつての師がいるとも知らずに。
 一度仕事をすれば、カイエル・ノウスの仕業だと必ず知れる。そうなれば、ルパンは決着をつけに現れるだろう。ならばいっそ、最初にルパンを殺してしまえば、後はやりたい放題だ。
 そこに考えが至った瞬間、老人の取るべき道は決まった。
 犠牲者の選択は、たまたまだった。たまたま出会ったから、殺したまでだ。ただし、二番目の女性だけは顔見知りだった。彼が経営する雑貨店に時々、買い物に来ていた。
 最初の娼婦を切り刻んだとき、自分の求めていたものに確信を抱いた。さすがに現役時代の正確さと素早さは失われていたが、指先はすぐにその感触を思い出した。女の柔肌に血が浮かび、肉が千切れ飛んだとき、えもいわれぬ快感を彼は覚えた。脳天を突き抜けるかのような痺れだった。
 この快感を、快楽を、彼の教え子は知らない。かつてルパン三世が人を殺すとき、彼の面には表情というものが全くなかった。ただ機械的に、相手を倒すだけだった。
 そう、――ちょうど今のように。

  挿絵 by こんきち

 すうっとルパンの顔から一切の感情というものが消えていくのを、カイエルは見た。
 彼の教え子は人を殺すとき、全ての感情を排除した。憎しみもなければ、悲しみもない。従って、相手への同情もないし、冷静に、的確に仕事をこなせる。殺し屋として、暗殺者として、まさに理想的であった。
 それを作り上げたのは自分だ、という奇妙な誇りすらカイエルは持っていた。
 そう、あの頃のルパン三世はいわば、カイエル・ノウスを始めとした幹部の手による、一種の芸術作品であった。
 カイエルの干からびた指が素早く動く。それが空気を裂き、ルパンを襲った。小さな掠り傷が幾筋もルパンの頬に走る。血が滲む。だが、ルパンは痛みを感じることすらないように、機械的に最小限の動きで攻撃を避けていく。
 ルパンの足元にそれが向かう。とん、とルパンは低く飛び、四つんばいで着地した。同時に地面を蹴り、間合いを詰める。懐からナイフを抜き、皺だらけの首筋を狙う。
 が、そのナイフがまるで何かに絡め取られたかのようにルパンの手から離れた。手放し、ルパンはカイエルから距離を取ると、建物の陰に隠れた。
 ナイフは、宙に浮いていた。
「私相手にナイフとは、判断ミスですな。接近戦での私が無敵であるのを、お忘れか?」
 カイエルは鼻を動かした。
「それにジタンの臭い。……どこに隠れようと手に取るように分かりますぞ」
 自らが作り上げた芸術品を、この手で壊す自虐的なほどの悦び。
 ナイフの切っ先が、建物へと向けられる。
 老人が指を操ると、弾かれたようにナイフが飛んだ。壁に突き刺さる。
「……む?」
 カイエルは眉を寄せ、緩慢とも思える動作で近寄った。
 そこに、ルパンはいなかった。
 ただ数本の煙草が、幾筋もの煙を上げていた。
「何と――」
「近頃の消臭剤は実に効果が優れててな」
 背後で声がし、カイエルは目を見開いた。身体を捻りながら距離を取る。
 相も変わらぬ冷たい表情で、ルパンは続けた。
「短い時間なら、俺の身体についた煙草の臭いもきれいさっぱり消してくれる」
「……ならば、そのチャンスを生かすべきでしたな」
 そこにルパンはいる。確かにいる。だが、気配がない。人形のように現実感のない存在。カイエルですら、気付かなかったほどに。
「その甘さが命取りですぞ」
 カイエルは確信した。この男に自分は殺せない、と。
 ニヤリと嘲った瞬間、老人は見た。
 ルパンの細い指が、器用に動くのを。まるでマリオネットを操るかのような、巧みな動きを。
 プツ、と音がした。
「……お前の得意技だったな、カイエル・ノウス」
 目に見えないぐらいに細く、丈夫で鋭い鋼の糸。指先のちょっとした動きを感じ取り、意思のままに自在に動くそれ。
 人体の切断も思いのままに、或いはナイフを操ることも、そして蜘蛛の巣のように張り巡らすことも。
 ――絡め取られた己の肉体に、筋が入ったことにカイエルは気付いた。血が滲み出し、肉が切れる音。
 不思議と、死への恐怖はなかった。敗れたことに対する悔恨も。
 かつて彼が奪ってきた多くの命と同様に、自分もまた終わるのだと、ただそれだけだった。
「私を殺して、全てを忘れますかな?」
 冷たい、氷のような瞳を覗き込んでカイエルは問うた。
 答えはなかった。
 代わりに、ほんの少しの指の動き。
 それで、全てが終了した。
 肉塊と化したかつての師へ、ルパンは呟いた。
「……忘れやしない。捨てもしないさ」


 アジトに戻ったとき、ひどく身体が疲弊しているのに気がついた。
 “あの状態”の後は、いつもこうだ。
 カイエルの言うように、ルパンは生まれついての犯罪者だった。彼の祖父がそうであったように。
 だが同時に、祖父と同じく殺しを忌み嫌った。どれだけ才能に恵まれていても。
 それでも相手を殺さねばならなかったあの頃、ルパンが覚えたのは意思と意識を切り離す術。一切の感情を閉じ込めてしまえば、何も考えずに動くことが出来る。才能の全てを注ぎ込むことが出来た。無論そこには、悦びはおろか哀れみや悲しみすらもない。
 ただ、楽だったのだ。
 しかし“あの状態”が終わると、いつもひどく疲れた。肉体の限界を無視して酷使するからだろう。
 完璧な仕事の代わりに、残るのは疲労感と空虚さのみ。これほど無意味なことはなかった。
 それでも今回、敢えて戦ったのは、カイエルがそれを望んだためと、――現実問題、“あの状態”でなければ、老人には勝てないからだった。現役を退いているとはいえ、相手は帝国一の暗殺者であり、殺しを悦びと感じる殺人鬼であった。殺人に抵抗を感じるルパンでは、おそらく敗れただろう。
 疲弊した肉体が、休息を欲していた。部屋まで行く余裕はなかった。
 辛うじて身体を引きずるようにし、ソファに倒れ込む。
 ルパンの意識は、そのまま急速に沈み込んでいった――。


 額にひやりとしたものを感じ、ルパンは飛び起きた。
 ぽとり、と彼の腹に固く絞ったタオルが落ちた。
「――へ?」
 何でどうしてタオルがここに? と首を巡らせたルパンの目に、銜え煙草で手にコップを持った相棒の姿が映った。
「よう、目が覚めたか」
「――じ、次元?」
「無理すんな。熱があるみてェだからな。ほれ、熱冷まし」
 コップと共に錠剤が手渡される。
 受け取ったそれをまじまじ眺めているルパンに、
「何見てんだよ? 早く飲めって」
と、次元が急かす。
「お前、どうして」
 声を出すのが億劫だった。確かに熱があるようだ。
「美女の看病じゃなくて、悪かったな」
 くい、と煙草が動いた。苦笑しているらしい。
「そうじゃなくて! 俺は街を出ろと――!」
「だから、出たさ。で、また戻ってきたわけだ」
「――は?」
 ルパンの目が、真ん丸になる。
「いったん出て、それで戻ってきたんだ。ちゃんと“命令”は聞いたぞ? 文句ねェだろ?」
「お前――それはだって、意味が――」
 街を出たら戻ってくるな、そう言ったつもりだった。普通はそう取るはずだ。
「悪ィな」
 次元がニヤリとした。カイエルとは全く違う笑みだった。
「俺は生憎、IQが300もねェもんでな。ちゃんと言ってもらわにゃ、分からねェよ」
 子供だって分かりそうな理屈だと思うが。
 ルパンは呆れ、口をパクパクさせた。言葉が出てこない。
「次元」
 ドアが開いて、五右ヱ門が入ってきた。その姿を見て、またルパンは目を丸くした。
「何やってんだ、お前?」
 襷掛けにし、小さな鍋を持っている。
「目が覚めたのか、ルパン。ちょうどよい。鮭と梅干、どっちにする?」
 急に問われ、えーと、と考え込んで答える。
「……鮭」
「分かった」
 頷き、一人で納得して戻っていく。
「……何だ?」
「お粥を作ってるんだと」
「お粥?」
「熱があるなら食欲もないだろうってんでな。石川家秘伝の薬草入りお粥だと」
 げっ、とルパンの顔が大いに歪む。五右ヱ門秘伝の薬草ともなれば、苦くてまずいこと請け合いだ。侍は、良薬口に苦し、と誇らしげに言うことだろうが。
「俺もそう思ったんだが、それなら食べやすいように他のモン入れるってよ。鮭粥にでもするんじゃねェか?」
 石川家秘伝の薬草の入った鮭粥を想像して、ルパンの顔が青ざめる。
「……いや、俺急に食欲出てきたから。ふつーの飯でいいわ、うん」
「まあ、そう言わずに食ってやれよ。多分、死んだりはしねェだろう」
 一応、薬草だしな、と全然慰めになっていないフォローを入れる。
 泣きそうな顔のルパンに、次元はつい吹き出した。
「他人事だと思いやがって!」
 ルパンはムッとなり、次いでつられたように笑った。


 ――忘れやしない。捨てもしない。

 どんな過去であれ、紛れもない“俺”だ。俺が“俺”を否定するわけにはいかない。
 それでも、こうして笑っているのは、本物の自分なのだろうか、と思うことがある。
 本当は、「ルパン三世」などという人間はとっくの昔に消滅しているのではないか、或いは“あの状態”の自分こそが本当の「ルパン三世」なのかもしれない、と。
 もしそうなら――、ここにいる“俺”は、誰なんだろう?
 わけもなく、不安に思うそんなとき、いつも傍に誰かがいる。お前はお前だと、言ってくれる。

 ――俺は、独りじゃない。

 かつて自分を守るために覚えた術は、二度と使われないに違いなかった。






私のあいまいなリクエストに見事に答えてくださった光路郎さん、素晴らしい作品をありがとうございました。私はルパンの多面性をこよなく愛しています。色々な苦悩や感情を誰からも隠して飄々と、あるいはクールに振る舞っているルパンが好きです。でも、感情をストレートに表すルパンも愛おしい♪ ルパンの抱え込んでいる過去や苦悩、そしてそんなルパンと仲間との信頼関係・・モロに私のツボを突いていらっしゃる!! 光路郎さんは素晴らしい筆致で実に多彩なルパンを描かれ、私はどの作品にも惚れ込んでいます(*^_^*) 是非光路郎さんのサイト、【アルルカン】にて 素敵なルパンの世界をご堪能下さい。


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